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新聞の発祥地 その2 [読書放浪]

その頃はまだ吾曹先生の文明が四海を落としていた。薩長の脅威であったはもちろん、健訟の弊風を論じて口も八丁手も八丁の代言人と戦って屏息せしめ、売薬無効を宜して売薬業者のボイコットに包囲されても一と睨みに縮み上がらせ、人触るれば人を斬り馬触るれば馬を斬る暫の金剛丸然と目を剥いて、完了の鯰坊主どもを恐がらせ、柳巷の女鯰をも威望に靡かせていた。

が、そのあと幾何もなく御用記者となってからは吾曹先生の熱望も忽ち失墜してしまった。日日新聞もまた社会的には段々影が薄くなって、吾曹先生引退後の日報社は篤實なる橘先生の精励も最早蕉時の勢力を盛り返すことがでいなくて、銀座の堂々たる石造りの大城郭が香料としてかくも無住寺の如くであった。


朝の新聞は今は忘れられたが成嶋柳北の適く所として可ならざるならなき多方面の才芸学術と江戸人通有の風流洒落とで鳴らした。日々についでの有力なる新聞紙であった。


読売はその頃の大新聞と少新聞の中間をとった中心分で、文学新聞と言うよりは家庭新聞であった。投書欄は当時の文学青年を喜ばした呼物で、硯友社の祭神はこの投書欄から発足した。

時事は上記の人文よりは遅れて出発したが、三田を背景とした堂々たる大新聞で、発刊当初からゴスペルオブソロバンの使徒を任じた大新聞であった。今は茶事風流に隠れて遊んでいるが、当時の高橋箒庵にあらざる高橋義雄の拝金傳道は目覚しいものであった。

拝金宗は実に落葉の紙買を狂わした名著でそのおかげで大成金になったものもあろうが、そのおかげで産を破ったものもあろう。


新聞の発祥地 その1 [読書放浪]

新聞町は今は有楽町に移ったが、もとは銀座が優勢な新聞社の淵藪であった。少くも京橋区内に旗揚げしなければ社運の大をなし難い感が新聞創業者に共通していたらしい。

「日新真実誌」が明治四年つい近頃区整で破壊された尾張町の山崎洋服店の所に新聞社の礎石を置いたのが初めてでその後が曙新聞となり、これも今は取り払われた元の服部時計店の角が朝野新聞、ライオンの所が毎日新聞、曙の隣が絵入朝野新聞で各々銀座の要害に立っていた。

読売が京橋の一角の第百の支店のある所、日々が銀座の中心のマツダランプの売店やタイガーのある所に盤踞していたのはつい先日のことだから誰も知っていよう。大通りではないが時事が南鍋町に、朝日が滝山町に在ったのはまだ記憶があまり新しい。

国民だけが蕉地とあまり遠からぬ加賀町に移転しただけで、その他はみな有楽町あるいは有楽橋付近に集まってしまった。が、その頃は銀座が新聞の中心地であった。

その頃の新聞は事件の報道よりは言論の機関で、実際新聞に干興したものは言論界の雄たるもののみならず、政治界の重鎮でもあったから、全ての政治的、社会的、思想的の諸運動が銀座を中心とする新聞社の編集局から捲起されたということは決して過言ではない。



寄席とシネマ [読書放浪]

その頃銀座には今の東名座の前進の金沢亭と、南鍋町の鶴仙と、もう一件銀座二丁目にも講釈場があった。寄席のファンであった私には寄席についての憶出もあるが、寄席は大抵どこでも同じだから銀座の寄席には余り行かなかった。

その中、金沢亭は都下有数の席で、第看板が常に掛かったが、まだしも谷の吹き抜け、浅草のなみき亭、神田の白梅には及ばなかった。


銀座には今シネマ銀座があって金春あたりの美人が大分来るという評判であるが、十年ほど前、西側の裏煉瓦に金春館というのがあった。建物は小さかったが、出し物は封切りの西洋ものばかりで、これも帝劇の女優が来るというので評判だった。

トウダンスで売りだした高木徳子が全盛だった頃、数寄屋橋内のスケート場に帰りにきっと来たそうで、マネージャーのSが今、高木徳子が来ていますと電話をかけてきたことが三四度あったが、徳子の素顔を見ても始まらないから一度も行かなかった。

金春感はいつ頃閉鎖したか知らないが、シネマ銀座がその株を取ったと見える。ここらの活動は、ちょうど銀座の散策がカフェよりも夜店の冷やかしよりもモガのぞめきを見物するを主とするものがあると同様にスクリーンの面白みよりは観覧席の目の保養を楽しむものがあるらしい。少なくとも銀座のムーヴェーは観覧席が興行主の懐の痛まぬ大入りの美景となってるらしい。


シネマのないころの唯一の民衆娯楽は寄席であるが、銀座には前記の三席があった。講釈場を除いて寄席は正月のほかは書簡は籍を打たぬものであったが、金沢亭には色物の書席があって、二三度聴きに行ったことがあった。

が、木が落ち着かないで寄せ気分になれなかったのと、夜は、その頃の私の下宿からあまり遠かったので、銀座の寄席には自然足が向かなかった。

何と言っても銀座の民衆娯楽は明治八九年の見世物時代が一番盛んであった。が、見世物の種類は前記の貝細工、覗眼鏡などは上等の部で、私は記憶はないが、銀座の故老の咄によると、今なら片山里の鎮守の祭礼にも小屋掛けしそうもない轆轤首、足芸、首切、因果物、神佛利生記、地獄変相のゼンマイ仕掛け等が昔からやはり人の出盛る西側に並んでいたそうだ。

銀座がおいおい商店で塞がってから山城河岸へ見世物は移転したがその頃の山城河岸と言ったら狐や狸の出そうな今の帝国ホテルの辺りと、茂った濠一つ隔てた寂しい街だったから、明るい町なればこそ轆轤首も見物はあるが、裏町の寂しい夜は一向人が来なかった。

だんだん寂れて一つ二つ減って、見世物町がいつか末枯れの、京侍の紋染五郎剛勢談に出てきそうなグロテスクな饂飩粉の女の巣となってしまった。




円太郎馬車と鉄道馬車 その2 [読書放浪]

円太郎というは名人圓朝の前座を勤めた男で、圓朝没後の三遊派を事実上に統率した園高の実兄だった。弟の園高が圓朝の衣鉢を傳えた素話の名人であったに引き換えて兄貴の円太郎は破鐘声で鼻にかかった都々逸を唄う以外には能のない、用器と言うよりは騒々しい男だったが、でっぷり肥えた丸まっちい無邪気な起き上がり小坊師のような身体つきと、高座へ上るとすぐ都々逸を唄い始めて、のべつ幕無しに一つ音曲噺を洒落まで同じに臆面もなく毎晩繰り返す毒のない芸が愛嬌になって相応に人気があった。

どういう洒落だか、持ち前の芸づくし大一座の中に乗合馬車の掛け声の真似をして「お婆さん危ないよ」と言ったのが馬鹿に人気を読んでドッという大喝采だった。だんだん円に乗って終いには喇叭を持ち込んで、咄をはじめる前にまずお客に向かって吹いた。

これがまた愛嬌となって高座でえんたろうが喇叭を吹くと割れるような騒ぎだった。馬鹿馬鹿しいくだらぬ芸であるが、圓朝一座のなくてならぬ愛嬌者となっていた。そのなか、圓遊はかなり音曲手踊の相当の素地があったが、円太郎談志は全く無芸の芸人ともいうべきもので、江戸の音曲の寄席芸術の表現派であった。

それからして乗合のガタ馬車の異名が円太郎となったので、乗合が喇叭を吹いたのは円太郎以前からだ。もとはやはりヨーロッパの田舎の飛脚馬車の真似をしたので銀座の大道を喇叭を吹いてガタ馬車を走らせた円はどうしても十八世紀あたりの風俗を憶出させる。明治の文明開化は円太郎馬車で象徴される。


円太郎馬車の全盛時代は貞秀が名所絵に気を吐いた明示し五年から八九年時代であった。が、十四五年ごろは飽かれ気味で、職人階級、労働階級でなければ乗るものはなかった。しかも官吏階級はたびにでもでなければ、乗合などには乗ろうともしなかった。

東京市中、しかも銀座の大道を円太郎がブウブウ喇叭を吹いて見苦しい車体をガタクリして通るは帝都の不面目だとせつに顰蹙していた。

奏任車にふんぞり返って行人を見下して走らせる資格のない階級や注等商品は円太郎へ乗る気にも慣れないで、人生行路難を東京市中で勤息していたのだから、円太郎と比べて同一の談でない馬車の開通を一斉に歓迎した。これでこそ文明としに恥ずかしからぬ交通機関だと注等階級者には感服された。私のごときも感服した一人であった。


これからしばらくは馬車鉄時代だった。錦絵を見ても赤い円太郎の右往左往するレンガ通りの光景は義理にも文明のしがいとは言い難かったが、鉄道馬車となるとどうやら文明の首都らしくなった。且つ開業当時は車が新しく、円太郎と比べて車体が大きく立派だったから感服されたが、暫くするとだんだん汚くなって徐々に飽かれ出した。

第一円太郎でも馬車鉄でも馬が牽く以上は排泄物を如何ともしがたかった。人夫が絶えず拾ってm拾い切れないで自然レールの間は馬糞を堆積して銀座の真ん中を通じて一條の馬糞溝ができた。殊更に停留所では定っていい気持ちそうに放尿した。

銀座ではないが、就中日本橋の大倉書店前は有名な鉄馬の放尿所であった。その頃は道幅が狭かったから、通りがかりの者は飛沫を浴びせられた。ロンドンのタワー・ブリッジも壮麗だが、自動車のない馬車時代、大船を通ずるために橋板を開くと馬糞がコロコロと転がり落ちるにはロンドナーもお国自慢の鼻が折れたそうだ。

日本一の日本橋の袂に馬尿の洪水が溢れているのは「江戸名所国会」には見られない国だ。喇叭円太郎氏高座で歌って曰く「ほれたほれたよお前にほれた、馬が小便して地が掘れた」と。喇叭氏、有繁に馬車馬の通人だった。




円太郎馬車と鉄道馬車 その1 [読書放浪]

清新軒へ行った帰り、ちょうど鉄道馬車が開通そこそこで、わざわざ鉄道馬車を見物に来るものさえったのだから、私も銀座へ出て尾張町から京橋まで乗ってみた。馬がレイルの上へ車を牽いて走るというなんでもないことが珍しがられたというは、今聞くと馬鹿らしくて信じられないが、その頃は真実珍しがられたのだ。

昔は近江の竹生嶋の住民が一生の憶出に大津の街へ行って馬を見て来べえと言ったという一つ咄があるが、まだ京濱の鉄道を見ないものもあった時代、馬車が記者と同じにレイルを走るというは第三次でないまでも見物であったに違いないので、私のごときも多少の好奇心を以って試乗した。

乗ってみれば格別の奇も無いがまだ出来立てのホヤホヤであるから、今までのガタ馬車と違って綺麗で、クッションも新しくフカフカして乗り心地が心地よかった。


鉄道馬車が布かれるまでの市内の交通機関は明治そこそこに文明開化の先駆けをした千里軒系統の乗合馬車であった。千里軒系統の乗合と言って今の若い人には貞秀の錦絵でも見なければわかるまいが、粗造な原始的の馬車である。

今では僻遠の山里でもめったに見られまいが、このがたくリバ者が背骨の現れて皮膚のすりむけた老馬をビシビシと引っ叩きつつブウブウ吹いて帝都の中央を走っていた。この痩せさらぼいた老馬が喘ぎ喘ぎ鼻から息を吹き、脂汗を垂らしてガタクリ走っていたのがお婆さん危ないよと今の自動車よりも怖がられていた。

落語家の円太郎がこのガタ馬車の真似をしたのが人気になって、乗合のボロ馬車を円太郎と呼び、今日の自動車のバスまでが円太郎と称される。


コレについて先ごろもある新聞が、乗合を円太郎と称する語源を説明して、落語家の円太郎が高座でガタ馬車の真似をしてからだというと、いや乗合馬車の方が円太郎の真似をしたのだと通ぶった明治研究科があった、ついこないだのことがこうも分からなくなるものかと本末転倒を笑止に思った。

話は少し横道に入るが、銀座の真ん中を走った電車以前の交通史のエピソードとして円太郎のことを少し加えよう。




清新軒と函館屋 その3 [読書放浪]

その頃銀座に函館屋という氷屋があった。天賞堂前の西側、銀座食堂で、富士の山の形をした屋根看板がひと目を牽いて銀座の評判となった。主人の伸大蔵というは榎本に従って脱走した五稜郭の残で、腰分に弾倉を受けてしばらく民家に隠れていた。

その後、東上して銀座に氷屋を創めたのが明治九年、屋号を箱根屋といったのは、その頃は天然水だけで函館が唯一の産地であったからだが、ひとつはごりょうかくが一生の忘れられない憶出であったからあでもあろう。

ビール樽のようなはち切れそうな恰幅で、その頃町家には珍しかった洋服に下駄履きという珍妙な扮装で、客を客とも思わず蛮声を浴びせかける五稜郭頭位の元気が売り物となって、富士の看板とともにたちまち銀座の名物となった。


函館屋は氷屋という條、その頃珍しい洋酒を置いて一杯売をした。鳥渡バーという形があった。五稜郭の残というので幕人中には、日本の最始の洋行者もたくさんあったのは争われない。後の伯爵林董先生などもその一人だったそうだ。

この函館屋でその頃既にアイスクリームを作っていた。しかも横浜の居留地内には明治に三年頃からアイスクリームを食べさせる家があって、一杯一分であったそうだ。米何斗という時代の一分は滅法界もない高いもんだったが、この一分のアイスクリームの味が忘れられないで、私の父などは東京にはあんな旨いものはないと始終いい合いした。

函館屋がアイスクリームを作り始めたのはいつ頃だかはっきりしないが、その頃は既に小耳に挟んでいた。が、清新軒の料理はご馳走してもらったが、函館屋のアイスクリームは少年の私の口に入るものではなかった。

金玉均が初めて来朝して宗十郎町の山城屋に滞在中、珍しい頬ベタの落ちそうなものはないかと注文されて、宿の主人の機転で函館屋のアイスクリームを出すと、金君本当に頬ベタを落としてしまった。それから後、函館屋のお馴染みとなって暇さえあればよく遊びに来たそうだ。


函館屋は牛乳と氷ではいつも率先していた。十数年前、一時カルピスの前身ともいうべきヨーグルトというが流行した。アイスクリームの甘みがなくて酸味の強いようなものだったが、函館屋のは殊更に美味だというので評判された。

しかもヨーグルトとしての医学的特効の方は疑問とされたが、函館屋のヨーグルトはかなり評判出会って、私の如きも態々使に買わせて賞味したことがあった。が、このヨーグルトで売ったのが函館屋のラストスパークでまもなく五稜郭の落ち武者のこの名物男は大往生して、名代の富士の山の看板は下ろされた。

函館屋の名も今は過去の語り草となったが、銀座の憶出に省くべからざる一人である。




清新軒と函館屋 その2 [読書放浪]

明治十四五年頃芝へ下宿し、それから三四年間芝と築地の間をあちこち転々した。銀座は遊歩区域だからちょくちょく散歩したが、そのころはもう見世物町でなく、今ほど銀座を享楽するものはなかった。その頃から銀座へ行けば贅沢者を売ってるという評判だったが、下宿住まいの貧乏書生の興味を惹く何者も銀座にはなかった。

松田と並び称された今の博品館の角の千年はその頃既に繁盛していた。松田は十八年の流行細見には依然中食のお職になってるがそのころは浅草の隅屋の後へ出した支店の方が栄え、銀座の本店は較や寂れて、新しい千年に落とされぎみであった。

どっちも同じ中食茶屋で、今なら食堂と言いそうな惣菜料理だったが、千歳の方が高等で、松田が衝立一つで幾組も入れたに反して、千年はこういう広い座敷の代わりに一組だけの別室も幾間かあった。が、赤ゲット向きの色硝子の障子などがあって万事の設備がやはりあまり上等ではなかった。


だが、その頃はもう照り焼ききんとんでもなかった。下宿屋書生共通の牛肉で、土橋の黄川田へよく出かけた。流行細見には銀座の吉川の名が見えるが、その頃私はまだ吉川を知らなかった。

具足町の河合はその頃から知っていたが、芝からは遠方だったから、自然黄川田へばかり足が向いた。卑しい咄だが、生一人付きの鍋にご飯で十二銭五厘だった。だが、その頃は十二銭五厘が中々な大金で、学費を請取った時でもなければ散財できなかった。

一厘一毛の余裕もない切羽詰まった算当で出かけたこともあった。大きな声じゃ言われないが、牛肉の誘惑に負けて教科書をぽーんしたこともあった。あんまり善良じゃなかったね。銀座のその頃の飲食店の憶出としてはコレの他にない。


私が初めて洋食を味わったのはやはり銀座であった。その頃より二三年前の明治十五年、新しい橋内の丸木へ撮りに行った帰りに従兄弟に連れられて槍屋町の清新軒で生まれて初めての西洋料理を食った。

どんなものが出たか忘れてしまったが、ナイフがうまく使えないので、チキンの皿をがちゃんと言わして更から肉を蹴飛ばしたことや、フィンガーグラスの水をがぶっと飲んで笑われたことを覚えている。

が、皿敷が7つばかりで今の三円の晩食よりも上等で、一人前が五十銭てのは安いもんだった。それでもその頃は洋食は贅沢視されて子どもや書生は分に過ぎると省かれて仲間入りが出来なかったもんだ。物価も安かったが、生活の程度も低かった。




清新軒と函館屋 その1 [読書放浪]

が、その頃はまだ銀座も草創時代で、表通りにさえ空き家があって裏煉瓦はまだ半成で、河岸通りになると日暮れには一足が途絶えた。見世物が景気を添えて人を呼んだが、盛り場としたらその頃久保町の腹と称した土橋のそばの空き地の方が葭簾張の鮨や汁粉やおでん、豆蔵や居合抜きや講釈で賑わった。

銀座からは少し離れていたが、柴野櫻田の売茶亭というがその頃の一流の大割烹店で、社交の中心となっていた。表は久保町に面して裏は壕端へ抜け、いつでも馬車の二三台は待っていた。

私はまだ子供でこういう方面の消息は一向知らなかったが、その頃は待合政治というものもなかったし、寝猫遊びは市井の遊治郎のすることで、朝廷の大臣参議は堂々と馬車を乗り入れて酔歌乱舞の豪興をやったものだ。私の家はこの売茶の隣屋だったから、夜に入ると絃歌の声が摂るように聞こえた。

売茶の閉鎖はいつ頃で会ったか知らぬが明治十八年の東京流行細見には芝京橋では第一位に挙げられ、養殖としても精養軒に継いでるからなお相当の声価を維持していたのだろうが、その頃はもう下り坂で寂れていたらしい。

花月は明治早々まだ煉瓦が出来ない以前からあったそうだが、その頃の子供の私はまるで交渉で名前すら聞かなかった。松田の鰆の照り焼きときんとん蒲鉾の口取が天下第一のご馳走であった。


その翌る年は下谷の家へ戻って銀座とは遠くなってしまったが、私の家の菩提所の白金の寺へ墓参した帰りは必ず銀座へ回った。その頃下谷から白金へ行くのは今日箱根や熱海へ行くよりも時間がかかったので車で行っても一日掛けの大旅行で会った。

墓参は附けたりで帰りに松田で鰆の照り焼きときんとん蒲鉾でごはんを食べるのが楽しみで、墓参というと3日も前から有頂天だった。それから暫くすると私の家はそろそろ左り前で、下谷の大きな邸から鳥越の小さな家へ引越し、鳥越の小さな家も売り払って三筋町へ店借りした。

何千坪の大きな地主様から三間か四間の借家人と一年立たぬ間に急転直下に成り下ったのだから、最早松田の照り焼きどころではなかった。折々の墓参も父が単身で一直線に菩提所へ詣でたので、私は遠方だからと連れて行かれなかった。




銀座の過去の憶出 その3 [読書放浪]

銀座の名物の松田はとっくの昔になくなって閉まっているのだが、狭い小路を隔てる玉鮨と隣って錦絵にすら載せられ、今尚若い人達にも知られている。松田へ初めて連れてってもらったときは絵に描いた竜宮へ逝ったような気がしてぼうっとしてしまった。

その頃の私の家はかなりブルジョア生活をしていたし、父は派手ものではなかったが相当遊蕩家だったから、名ある旗亭へ連れてってもらったこともそれまで何度かあったが、洋治の記憶に一番残っているのは松田である。

今考えるとだだっ広い座敷でこそあれ、一つ室に幾組ものお客を衝立一つで仕切って入れた、お茶づけ茶屋であった。立派といった所で、地震に焼けた前の浅草の常磐位なもんだったろう。入り口は色硝子の市松格子で、正面は幅の広い段梯子、お客が来ると下足番が大きな声で何番とどなる。あんまり上等じゃなかった。

が、階段をとんとん登ると老化には絵硝子の灯籠が一間置きくらいに吊るされ、その頃まだ珍しかった瓦が大広間に点火されていたから、その下に座らせられた田舎の爺さま婆さまは目を丸くしてぶったまげてしまった。


大向の人気は兎角下品な趣味が感服されるもので、二十五六年前、大阪のある牛肉屋の四方鏡張りの雪隠が代表板となったので、一事大阪の各旗亭が便所の設計を競争したことがあった。松田はこの雪隠政策の先駆者で、松田の手水場と言ったら大した評判だった。別段変わった設計をしたわけではなかった。

その頃の注意かの飲食店の厠と言ったら鼻持ちならない不潔であるのが不通であった。松田は特に便所の造作に念を入れ、便所の中を鏡のように吹き恋、香り気の高い防臭剤をプンプン匂わし、手洗鉢に噴水を装置し、水盤が控えて一々水をかけてくれた。

松田の手水場は臭くなくて良い匂いがする。お茶席よりも綺麗だと評判された。松田が繁盛したには、種々の理由があろうが、便所の清潔は確かにその理由の重なる1つで、松田へ行くものは便意のあるなしに拘らず必ず便所へ入ったもので、手水場拝見が松田遊興のプログラムの項目の1つであった。特に雪隠の設備に若干行を割いたのを以って推しても、松田の便所が当時の話題の1つであったを証すべきである。


松田の防臭剤がなんであったかは子供の時で気にも留めなかったが、プンプン鼻を衝いたのはやはり樟脳の類らしかった。それから後、防臭剤の類がたくさん出来て、飲食店に限らず公衆の集まる便所はアンモニアの代わりに樟脳の匂いがするようになった。

時代は次第に移って一の臭気を防ぐため他の臭気を迎えるこの種の防腐設備を厭うようになった。帝劇のできた時分、口の悪い故人の岩村芋洗が芝居はやはりアルボースの臭がしないと芝居の気分が出ないと皮肉を言ったことがあるが、松田の手水場も当時の文明開化には嬉しがられたが、あれではお茶屋の気分が出ないと江戸の通人の遺老の間にはあまり評判がよろしくなかったのかもしれない。が、便所の設備が人気を読んだというのだから、当時の文明開化の空気は略ぼ想像される。




銀座の過去の憶出 その2 [読書放浪]

この英断があったればこそ銀座は一足飛びに文明開化の新市街を現出して、それから以後メキメキと成長して日本橋を落とするの商業区となったのである。

煉瓦石造りの建築例が布かれたのは和田倉大火早々の明治5年2月であるが、この建築例に拡る銀座の新市街の出来上がったのはいつであるか、コレについての諸説はマチマチであって、銀座の古老たちの記憶もアヤフヤで、中には思い切った興太を飛ばす銀座通りもある。

が、確たる記録がなくとも銀座礼賛の声を第一に掲げた「東京新繁昌記」の初編が出版されたのは明治7年4月であって、銀座を礼賛しつつも書中に新市街を迎える記事なり口気なりが見えないので推すと、その自分は既に立派に出来上がっていたので、六年頃に竣工したのではなかろうか。

資生堂編纂の銀座に載った二三の遺老の咄に、銀座はその初め空き家が多くて塞がらなかった。煉瓦を積んだ職人が煉瓦をつなぐ漆喰の扱いに慣れなかったので、その為湯気で住み手がなかったから見世物小屋がたくさんできたのだそうだ。

私が初めて銀座を知ったのは明治八年でその頃、銀座は見世物の軒並びで賑わっていた。それから推しても一年やそこらで湯気を恐れて逃げ出すものがあるはずがないから、それから二年前の明治六年頃にレンガ通りが出来上がったと見るのが当たらずとも遠からざる憶測であろう。


その頃、私は銀座に近い柴野櫻田の壕端に住んでいた。その頃は市内の交通がまだ不便だったから山の手や浅草下谷の場末から泊りがけでわざわざ煉瓦の新市街を見物に来る泊まり客が耐えなかった。

左もないものでも煉瓦へ案内するのが泊まり客への第一のご馳走だった。その度に私はお供をしたが、新橋へ行くとにわかに夜が明けたように明るくなって気が浮き浮きした。

ハッキリは覚えないが、尾張町近所が見世物街で、貝細工やその頃流行った覗眼鏡が並んでいた。確か今のライオンの角だったと思うが、自雷也と大蛇丸と綱手姫の妙高山の術くらべの人形が貝細工で出来ていて、同国醤油樽程ある大蛇の貝細工が素晴らしい評判だった。

この銀座の見世物街で私は初めて油絵というものを見た。誰の絵だとかその時は知らなかったが、後に高橋由一の社中であると誰からだか聞いた。しかもあまりあてにならない説で虚聞であるかもしれないが、鮭の片身が壁へブラ下っている園や行燈の火影で婆さんが雑巾を刺している園で、子供心に本物のようだと感心して二三度連れてってもらった。



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