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清新軒と函館屋 その1 [読書放浪]

が、その頃はまだ銀座も草創時代で、表通りにさえ空き家があって裏煉瓦はまだ半成で、河岸通りになると日暮れには一足が途絶えた。見世物が景気を添えて人を呼んだが、盛り場としたらその頃久保町の腹と称した土橋のそばの空き地の方が葭簾張の鮨や汁粉やおでん、豆蔵や居合抜きや講釈で賑わった。

銀座からは少し離れていたが、柴野櫻田の売茶亭というがその頃の一流の大割烹店で、社交の中心となっていた。表は久保町に面して裏は壕端へ抜け、いつでも馬車の二三台は待っていた。

私はまだ子供でこういう方面の消息は一向知らなかったが、その頃は待合政治というものもなかったし、寝猫遊びは市井の遊治郎のすることで、朝廷の大臣参議は堂々と馬車を乗り入れて酔歌乱舞の豪興をやったものだ。私の家はこの売茶の隣屋だったから、夜に入ると絃歌の声が摂るように聞こえた。

売茶の閉鎖はいつ頃で会ったか知らぬが明治十八年の東京流行細見には芝京橋では第一位に挙げられ、養殖としても精養軒に継いでるからなお相当の声価を維持していたのだろうが、その頃はもう下り坂で寂れていたらしい。

花月は明治早々まだ煉瓦が出来ない以前からあったそうだが、その頃の子供の私はまるで交渉で名前すら聞かなかった。松田の鰆の照り焼きときんとん蒲鉾の口取が天下第一のご馳走であった。


その翌る年は下谷の家へ戻って銀座とは遠くなってしまったが、私の家の菩提所の白金の寺へ墓参した帰りは必ず銀座へ回った。その頃下谷から白金へ行くのは今日箱根や熱海へ行くよりも時間がかかったので車で行っても一日掛けの大旅行で会った。

墓参は附けたりで帰りに松田で鰆の照り焼きときんとん蒲鉾でごはんを食べるのが楽しみで、墓参というと3日も前から有頂天だった。それから暫くすると私の家はそろそろ左り前で、下谷の大きな邸から鳥越の小さな家へ引越し、鳥越の小さな家も売り払って三筋町へ店借りした。

何千坪の大きな地主様から三間か四間の借家人と一年立たぬ間に急転直下に成り下ったのだから、最早松田の照り焼きどころではなかった。折々の墓参も父が単身で一直線に菩提所へ詣でたので、私は遠方だからと連れて行かれなかった。




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