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円太郎馬車と鉄道馬車 その2 [読書放浪]

円太郎というは名人圓朝の前座を勤めた男で、圓朝没後の三遊派を事実上に統率した園高の実兄だった。弟の園高が圓朝の衣鉢を傳えた素話の名人であったに引き換えて兄貴の円太郎は破鐘声で鼻にかかった都々逸を唄う以外には能のない、用器と言うよりは騒々しい男だったが、でっぷり肥えた丸まっちい無邪気な起き上がり小坊師のような身体つきと、高座へ上るとすぐ都々逸を唄い始めて、のべつ幕無しに一つ音曲噺を洒落まで同じに臆面もなく毎晩繰り返す毒のない芸が愛嬌になって相応に人気があった。

どういう洒落だか、持ち前の芸づくし大一座の中に乗合馬車の掛け声の真似をして「お婆さん危ないよ」と言ったのが馬鹿に人気を読んでドッという大喝采だった。だんだん円に乗って終いには喇叭を持ち込んで、咄をはじめる前にまずお客に向かって吹いた。

これがまた愛嬌となって高座でえんたろうが喇叭を吹くと割れるような騒ぎだった。馬鹿馬鹿しいくだらぬ芸であるが、圓朝一座のなくてならぬ愛嬌者となっていた。そのなか、圓遊はかなり音曲手踊の相当の素地があったが、円太郎談志は全く無芸の芸人ともいうべきもので、江戸の音曲の寄席芸術の表現派であった。

それからして乗合のガタ馬車の異名が円太郎となったので、乗合が喇叭を吹いたのは円太郎以前からだ。もとはやはりヨーロッパの田舎の飛脚馬車の真似をしたので銀座の大道を喇叭を吹いてガタ馬車を走らせた円はどうしても十八世紀あたりの風俗を憶出させる。明治の文明開化は円太郎馬車で象徴される。


円太郎馬車の全盛時代は貞秀が名所絵に気を吐いた明示し五年から八九年時代であった。が、十四五年ごろは飽かれ気味で、職人階級、労働階級でなければ乗るものはなかった。しかも官吏階級はたびにでもでなければ、乗合などには乗ろうともしなかった。

東京市中、しかも銀座の大道を円太郎がブウブウ喇叭を吹いて見苦しい車体をガタクリして通るは帝都の不面目だとせつに顰蹙していた。

奏任車にふんぞり返って行人を見下して走らせる資格のない階級や注等商品は円太郎へ乗る気にも慣れないで、人生行路難を東京市中で勤息していたのだから、円太郎と比べて同一の談でない馬車の開通を一斉に歓迎した。これでこそ文明としに恥ずかしからぬ交通機関だと注等階級者には感服された。私のごときも感服した一人であった。


これからしばらくは馬車鉄時代だった。錦絵を見ても赤い円太郎の右往左往するレンガ通りの光景は義理にも文明のしがいとは言い難かったが、鉄道馬車となるとどうやら文明の首都らしくなった。且つ開業当時は車が新しく、円太郎と比べて車体が大きく立派だったから感服されたが、暫くするとだんだん汚くなって徐々に飽かれ出した。

第一円太郎でも馬車鉄でも馬が牽く以上は排泄物を如何ともしがたかった。人夫が絶えず拾ってm拾い切れないで自然レールの間は馬糞を堆積して銀座の真ん中を通じて一條の馬糞溝ができた。殊更に停留所では定っていい気持ちそうに放尿した。

銀座ではないが、就中日本橋の大倉書店前は有名な鉄馬の放尿所であった。その頃は道幅が狭かったから、通りがかりの者は飛沫を浴びせられた。ロンドンのタワー・ブリッジも壮麗だが、自動車のない馬車時代、大船を通ずるために橋板を開くと馬糞がコロコロと転がり落ちるにはロンドナーもお国自慢の鼻が折れたそうだ。

日本一の日本橋の袂に馬尿の洪水が溢れているのは「江戸名所国会」には見られない国だ。喇叭円太郎氏高座で歌って曰く「ほれたほれたよお前にほれた、馬が小便して地が掘れた」と。喇叭氏、有繁に馬車馬の通人だった。




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