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IT企業に転職して、キャリアアップを目指してみる


IT企業は夢を実現できる企業です。

なんて思ってないですけど、まぁIT企業に入りたいと思っている人は多いと思います。

何となく入りたいとか名前で入りたいとかだったら辞めたほうがいいと思いますけど、こういうプログラムを作りたいとか、このサービスの管理側に回りたいとかそういうのってあると思います。

規模は物凄く大きいですけど、ニコニコ動画の運営ってそういう人が多いみたいですからね。

で、IT企業からIT企業へのキャリアアップを目指すならIT企業への転職でキャリアアップ!で紹介しているレバレジーズテックを使って転職してみるのもありかなと思います。

こういう転職エージェントっていう仕事は、転職先の企業からマージンをもらっていると思うですけど、利用者にお金がかからないというのはビジネスモデルとしてはなかなか好きなんですよね。

エンジニアに特化してるみたいなのと、あとサイトのデザインが古臭くないので、個人的には信頼できそうかなと思いました。笑

だって、未だに1990年代のようなデザインの求人サイトとかもありますからね。もうびっくりですよ。

ITの求人サイトを語るなよ、みたいな。

まぁ簡単にキャリアアップできたら世話ねえよと思いますが、転職を考えられている方が本気で転職したいと思うなら、転職エージェントを使うことは有りだと思うので、それならエンジニア専門で特化している企業の方が信頼度は高いかなと。


まぁ、そんな感じです。





新聞の発祥地 その2 [読書放浪]

その頃はまだ吾曹先生の文明が四海を落としていた。薩長の脅威であったはもちろん、健訟の弊風を論じて口も八丁手も八丁の代言人と戦って屏息せしめ、売薬無効を宜して売薬業者のボイコットに包囲されても一と睨みに縮み上がらせ、人触るれば人を斬り馬触るれば馬を斬る暫の金剛丸然と目を剥いて、完了の鯰坊主どもを恐がらせ、柳巷の女鯰をも威望に靡かせていた。

が、そのあと幾何もなく御用記者となってからは吾曹先生の熱望も忽ち失墜してしまった。日日新聞もまた社会的には段々影が薄くなって、吾曹先生引退後の日報社は篤實なる橘先生の精励も最早蕉時の勢力を盛り返すことがでいなくて、銀座の堂々たる石造りの大城郭が香料としてかくも無住寺の如くであった。


朝の新聞は今は忘れられたが成嶋柳北の適く所として可ならざるならなき多方面の才芸学術と江戸人通有の風流洒落とで鳴らした。日々についでの有力なる新聞紙であった。


読売はその頃の大新聞と少新聞の中間をとった中心分で、文学新聞と言うよりは家庭新聞であった。投書欄は当時の文学青年を喜ばした呼物で、硯友社の祭神はこの投書欄から発足した。

時事は上記の人文よりは遅れて出発したが、三田を背景とした堂々たる大新聞で、発刊当初からゴスペルオブソロバンの使徒を任じた大新聞であった。今は茶事風流に隠れて遊んでいるが、当時の高橋箒庵にあらざる高橋義雄の拝金傳道は目覚しいものであった。

拝金宗は実に落葉の紙買を狂わした名著でそのおかげで大成金になったものもあろうが、そのおかげで産を破ったものもあろう。


新聞の発祥地 その1 [読書放浪]

新聞町は今は有楽町に移ったが、もとは銀座が優勢な新聞社の淵藪であった。少くも京橋区内に旗揚げしなければ社運の大をなし難い感が新聞創業者に共通していたらしい。

「日新真実誌」が明治四年つい近頃区整で破壊された尾張町の山崎洋服店の所に新聞社の礎石を置いたのが初めてでその後が曙新聞となり、これも今は取り払われた元の服部時計店の角が朝野新聞、ライオンの所が毎日新聞、曙の隣が絵入朝野新聞で各々銀座の要害に立っていた。

読売が京橋の一角の第百の支店のある所、日々が銀座の中心のマツダランプの売店やタイガーのある所に盤踞していたのはつい先日のことだから誰も知っていよう。大通りではないが時事が南鍋町に、朝日が滝山町に在ったのはまだ記憶があまり新しい。

国民だけが蕉地とあまり遠からぬ加賀町に移転しただけで、その他はみな有楽町あるいは有楽橋付近に集まってしまった。が、その頃は銀座が新聞の中心地であった。

その頃の新聞は事件の報道よりは言論の機関で、実際新聞に干興したものは言論界の雄たるもののみならず、政治界の重鎮でもあったから、全ての政治的、社会的、思想的の諸運動が銀座を中心とする新聞社の編集局から捲起されたということは決して過言ではない。



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