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新聞の発祥地 その2 [読書放浪]

その頃はまだ吾曹先生の文明が四海を落としていた。薩長の脅威であったはもちろん、健訟の弊風を論じて口も八丁手も八丁の代言人と戦って屏息せしめ、売薬無効を宜して売薬業者のボイコットに包囲されても一と睨みに縮み上がらせ、人触るれば人を斬り馬触るれば馬を斬る暫の金剛丸然と目を剥いて、完了の鯰坊主どもを恐がらせ、柳巷の女鯰をも威望に靡かせていた。

が、そのあと幾何もなく御用記者となってからは吾曹先生の熱望も忽ち失墜してしまった。日日新聞もまた社会的には段々影が薄くなって、吾曹先生引退後の日報社は篤實なる橘先生の精励も最早蕉時の勢力を盛り返すことがでいなくて、銀座の堂々たる石造りの大城郭が香料としてかくも無住寺の如くであった。


朝の新聞は今は忘れられたが成嶋柳北の適く所として可ならざるならなき多方面の才芸学術と江戸人通有の風流洒落とで鳴らした。日々についでの有力なる新聞紙であった。


読売はその頃の大新聞と少新聞の中間をとった中心分で、文学新聞と言うよりは家庭新聞であった。投書欄は当時の文学青年を喜ばした呼物で、硯友社の祭神はこの投書欄から発足した。

時事は上記の人文よりは遅れて出発したが、三田を背景とした堂々たる大新聞で、発刊当初からゴスペルオブソロバンの使徒を任じた大新聞であった。今は茶事風流に隠れて遊んでいるが、当時の高橋箒庵にあらざる高橋義雄の拝金傳道は目覚しいものであった。

拝金宗は実に落葉の紙買を狂わした名著でそのおかげで大成金になったものもあろうが、そのおかげで産を破ったものもあろう。


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