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銀座の過去の憶出 その2 [読書放浪]

この英断があったればこそ銀座は一足飛びに文明開化の新市街を現出して、それから以後メキメキと成長して日本橋を落とするの商業区となったのである。

煉瓦石造りの建築例が布かれたのは和田倉大火早々の明治5年2月であるが、この建築例に拡る銀座の新市街の出来上がったのはいつであるか、コレについての諸説はマチマチであって、銀座の古老たちの記憶もアヤフヤで、中には思い切った興太を飛ばす銀座通りもある。

が、確たる記録がなくとも銀座礼賛の声を第一に掲げた「東京新繁昌記」の初編が出版されたのは明治7年4月であって、銀座を礼賛しつつも書中に新市街を迎える記事なり口気なりが見えないので推すと、その自分は既に立派に出来上がっていたので、六年頃に竣工したのではなかろうか。

資生堂編纂の銀座に載った二三の遺老の咄に、銀座はその初め空き家が多くて塞がらなかった。煉瓦を積んだ職人が煉瓦をつなぐ漆喰の扱いに慣れなかったので、その為湯気で住み手がなかったから見世物小屋がたくさんできたのだそうだ。

私が初めて銀座を知ったのは明治八年でその頃、銀座は見世物の軒並びで賑わっていた。それから推しても一年やそこらで湯気を恐れて逃げ出すものがあるはずがないから、それから二年前の明治六年頃にレンガ通りが出来上がったと見るのが当たらずとも遠からざる憶測であろう。


その頃、私は銀座に近い柴野櫻田の壕端に住んでいた。その頃は市内の交通がまだ不便だったから山の手や浅草下谷の場末から泊りがけでわざわざ煉瓦の新市街を見物に来る泊まり客が耐えなかった。

左もないものでも煉瓦へ案内するのが泊まり客への第一のご馳走だった。その度に私はお供をしたが、新橋へ行くとにわかに夜が明けたように明るくなって気が浮き浮きした。

ハッキリは覚えないが、尾張町近所が見世物街で、貝細工やその頃流行った覗眼鏡が並んでいた。確か今のライオンの角だったと思うが、自雷也と大蛇丸と綱手姫の妙高山の術くらべの人形が貝細工で出来ていて、同国醤油樽程ある大蛇の貝細工が素晴らしい評判だった。

この銀座の見世物街で私は初めて油絵というものを見た。誰の絵だとかその時は知らなかったが、後に高橋由一の社中であると誰からだか聞いた。しかもあまりあてにならない説で虚聞であるかもしれないが、鮭の片身が壁へブラ下っている園や行燈の火影で婆さんが雑巾を刺している園で、子供心に本物のようだと感心して二三度連れてってもらった。



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