SSブログ

清新軒と函館屋 その2 [読書放浪]

明治十四五年頃芝へ下宿し、それから三四年間芝と築地の間をあちこち転々した。銀座は遊歩区域だからちょくちょく散歩したが、そのころはもう見世物町でなく、今ほど銀座を享楽するものはなかった。その頃から銀座へ行けば贅沢者を売ってるという評判だったが、下宿住まいの貧乏書生の興味を惹く何者も銀座にはなかった。

松田と並び称された今の博品館の角の千年はその頃既に繁盛していた。松田は十八年の流行細見には依然中食のお職になってるがそのころは浅草の隅屋の後へ出した支店の方が栄え、銀座の本店は較や寂れて、新しい千年に落とされぎみであった。

どっちも同じ中食茶屋で、今なら食堂と言いそうな惣菜料理だったが、千歳の方が高等で、松田が衝立一つで幾組も入れたに反して、千年はこういう広い座敷の代わりに一組だけの別室も幾間かあった。が、赤ゲット向きの色硝子の障子などがあって万事の設備がやはりあまり上等ではなかった。


だが、その頃はもう照り焼ききんとんでもなかった。下宿屋書生共通の牛肉で、土橋の黄川田へよく出かけた。流行細見には銀座の吉川の名が見えるが、その頃私はまだ吉川を知らなかった。

具足町の河合はその頃から知っていたが、芝からは遠方だったから、自然黄川田へばかり足が向いた。卑しい咄だが、生一人付きの鍋にご飯で十二銭五厘だった。だが、その頃は十二銭五厘が中々な大金で、学費を請取った時でもなければ散財できなかった。

一厘一毛の余裕もない切羽詰まった算当で出かけたこともあった。大きな声じゃ言われないが、牛肉の誘惑に負けて教科書をぽーんしたこともあった。あんまり善良じゃなかったね。銀座のその頃の飲食店の憶出としてはコレの他にない。


私が初めて洋食を味わったのはやはり銀座であった。その頃より二三年前の明治十五年、新しい橋内の丸木へ撮りに行った帰りに従兄弟に連れられて槍屋町の清新軒で生まれて初めての西洋料理を食った。

どんなものが出たか忘れてしまったが、ナイフがうまく使えないので、チキンの皿をがちゃんと言わして更から肉を蹴飛ばしたことや、フィンガーグラスの水をがぶっと飲んで笑われたことを覚えている。

が、皿敷が7つばかりで今の三円の晩食よりも上等で、一人前が五十銭てのは安いもんだった。それでもその頃は洋食は贅沢視されて子どもや書生は分に過ぎると省かれて仲間入りが出来なかったもんだ。物価も安かったが、生活の程度も低かった。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。