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銀座の過去の憶出 その3 [読書放浪]

銀座の名物の松田はとっくの昔になくなって閉まっているのだが、狭い小路を隔てる玉鮨と隣って錦絵にすら載せられ、今尚若い人達にも知られている。松田へ初めて連れてってもらったときは絵に描いた竜宮へ逝ったような気がしてぼうっとしてしまった。

その頃の私の家はかなりブルジョア生活をしていたし、父は派手ものではなかったが相当遊蕩家だったから、名ある旗亭へ連れてってもらったこともそれまで何度かあったが、洋治の記憶に一番残っているのは松田である。

今考えるとだだっ広い座敷でこそあれ、一つ室に幾組ものお客を衝立一つで仕切って入れた、お茶づけ茶屋であった。立派といった所で、地震に焼けた前の浅草の常磐位なもんだったろう。入り口は色硝子の市松格子で、正面は幅の広い段梯子、お客が来ると下足番が大きな声で何番とどなる。あんまり上等じゃなかった。

が、階段をとんとん登ると老化には絵硝子の灯籠が一間置きくらいに吊るされ、その頃まだ珍しかった瓦が大広間に点火されていたから、その下に座らせられた田舎の爺さま婆さまは目を丸くしてぶったまげてしまった。


大向の人気は兎角下品な趣味が感服されるもので、二十五六年前、大阪のある牛肉屋の四方鏡張りの雪隠が代表板となったので、一事大阪の各旗亭が便所の設計を競争したことがあった。松田はこの雪隠政策の先駆者で、松田の手水場と言ったら大した評判だった。別段変わった設計をしたわけではなかった。

その頃の注意かの飲食店の厠と言ったら鼻持ちならない不潔であるのが不通であった。松田は特に便所の造作に念を入れ、便所の中を鏡のように吹き恋、香り気の高い防臭剤をプンプン匂わし、手洗鉢に噴水を装置し、水盤が控えて一々水をかけてくれた。

松田の手水場は臭くなくて良い匂いがする。お茶席よりも綺麗だと評判された。松田が繁盛したには、種々の理由があろうが、便所の清潔は確かにその理由の重なる1つで、松田へ行くものは便意のあるなしに拘らず必ず便所へ入ったもので、手水場拝見が松田遊興のプログラムの項目の1つであった。特に雪隠の設備に若干行を割いたのを以って推しても、松田の便所が当時の話題の1つであったを証すべきである。


松田の防臭剤がなんであったかは子供の時で気にも留めなかったが、プンプン鼻を衝いたのはやはり樟脳の類らしかった。それから後、防臭剤の類がたくさん出来て、飲食店に限らず公衆の集まる便所はアンモニアの代わりに樟脳の匂いがするようになった。

時代は次第に移って一の臭気を防ぐため他の臭気を迎えるこの種の防腐設備を厭うようになった。帝劇のできた時分、口の悪い故人の岩村芋洗が芝居はやはりアルボースの臭がしないと芝居の気分が出ないと皮肉を言ったことがあるが、松田の手水場も当時の文明開化には嬉しがられたが、あれではお茶屋の気分が出ないと江戸の通人の遺老の間にはあまり評判がよろしくなかったのかもしれない。が、便所の設備が人気を読んだというのだから、当時の文明開化の空気は略ぼ想像される。




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