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銀座の過去の憶出 その1 [読書放浪]

銀座は江戸の初め駿府から写した銀座の故地で、町名は金座の本両替町に対する新両替町である。こういう考證は江戸ロギストの領分内で、今更反復する必要はないが、銀座が本当の町名となったは維新後である。

銀座の記事が江戸の蕉誌に一向見えないのは、寛政年中銀座が蝋穀町に移されるまでは、京橋以南に銀座役人の役宅ばかりで町家が少なかったのではなかろうか。銀座が移転した享和以後、ポツポツ盛り初めても尾張町以北は銀座役人の役宅跡で、あまり賑やかな街ではなかったらしい。

江戸の買物案内を見ても古い時代のにはあまり見えない。文化文政以後の買い物帳には大分殖えているが、名物らしい買物はない。且つ儒者や国学者や書家や長袖が大分住んでいたのを見ると、町家の軒並びでなかったのは容易に推想される。

「江戸名所国会」に載っている金六町の信楽の店構えを見てもなんとなく宿ばらしい面影がある。同じ「江戸名所国会」の尾張町は江戸の繁華を思わせるものがあるが、この殷賑は江戸末期であって、江戸時代を通ずる新橋京橋間は、少くも尾張町以北はこれと日本橋都の間の宿であったらしい。

銀座の繁盛は明治となってからで、明治5年の2月、和田倉門の家事が銀座一体を焦土にしたのが銀座の幸いとなったのである。

が、改革の気運に乗じ、新政府の威光を持って焦土の街に臨んだにせよ、この道路改正、家屋改築を断行できたのは地価低落のどん底の維新早々にしろ、江戸時代からの土一升に金一升の日本橋と違って街続きの銀座の土地が買収しやすかったからであろう。これを以っても当時の銀座の経済価格を知るべきである。




ショッピングスポーツマンの狩場 [読書放浪]

西側は食味の街であるが、東側はどちらかとういうと買物街である。銀座の王者のごとく全街を威圧している松屋と松坂屋のあるは東側である。これから建築される銀座会館の敷地も山崎洋服店とその地続きを三四軒潰した跡で、更に新しい鉅観を東側に加えるだろう。

日本の時計界を両分してほとんど使君と操とのみという如く相対峙する天賞堂も服部時計店も東側である。日本の楽器界の覇王たる浜松楽器会社の売店、鷲印レコードの発売元で、今はコロンビアとも併合した日本蓄音機会社も東側である。

モガの家庭の憧憬となっている洋風食器の十一屋、女学生がこれの文房装飾でなければ夜も日も明けないように吸い付く文房具の伊東屋も東側である。銀座には些と似合わしくないが東京一の大仏師として東洋癖の外国人間にも聞こえる安田松慶の店も、もとは日本橋の東中通にあったのが銀座の西側に進出した。

暖簾はまだ新しいが尾張町の二葉屋と四丁目の不二家とは高級洋物屋として頭角を抽んでて東京一の贄澤屋として称されている。二葉屋の大陸流行の雑貨、佛獨の小工芸品を集めた飾り窓はブルを感嘆させプロを興奮せしめる。

Hujiyaの屋号のローマ字綴りは駆け出しのローマ字論者を煙に巻いて商売ぶりの新しさを思わしめる。今は過去の憶出となったが、岸田の精綺水も岩谷の天狗煙草も東側である。


だが、西側もまた老舗の軒並びである。毎年のクリスマスデコレーションは銀ブラ人の足を留めずには措かない。銀座の名物の明治屋も亀屋も西側である。東側の天賞堂、服部と対峙する時計屋としては玉屋と山崎とがある。

玉屋は銀座の老舗の1つで明治十一年私が用器書法を習い始めた時、コンパス烏口を売る店は玉屋の他にはないというので鉄道馬車もない時代に下谷から銀座まで歩いて買いに行ったことがある。山崎が銀座へ進出したのは地震後であるが、貴金属としては古くから知られている。

メダルの縮刻機械を初めて日本へ取り寄せた家である。楽器屋の山野、十字屋が音楽普及に功績あるは上野の諸君に減ずるものではない。エルマンやハイフエッツの妙技を遍く認めさせて帝劇の十円の切符をも高しとしなかったのはニ店がベクトルのレコードを九州北海道に行き渡らせた力である。

毛糸の伊勢谷で何十年来売り込んだ三丁目の三枝は地震後卸部をよこまちに移してもっぱら主力を卸に注いでいるが、東京一の洋物直輸入商たる実力は小売部にも現れて、小売の店はあまり大きくないが品物は潤沢で且つ贅沢物屋として知られている。

教文館はアメリカ版専門の上に品物が少しミッション臭いが左も右くも洋書の輸入では丸善に次ぐ店である。丸八は江戸時代からの蕉家、銀ブラの仇には見過ごせない古い薬種店である。蚊取り線香ばかりで有名なのではない。

もとは三越から分離した呉服者の越後屋、贅沢屋の評判の高い田屋洋服屋、世界に名の通っている御木本真珠店、ナショナルの金銭登録器、黒澤のタイプライター、鳩居堂の筆墨硯文房品、東京に唯一軒だけのプレイガイド、大百貨店こそないが西側にもまた有名な店がある。


ショッピングもまた1つの享楽である。況や必需意外、あるいは必需以上の欲求を満たして優越感を味わい、あるいは価格に品質に以外の儲けものとしていわゆる買い物上手の誇りを感じた場合のショッピングは、ちょうど狩師が首尾よく獲物を仕留めた時と同じ会心の満足がある。

これからの歳暮に当たって、全身をステーションの赤帽然と買物包で満艦飾をして、勝ち誇った顔をして雑踏を縫って歩く紳士淑女を何人となく見受けるが、銀座はこういうショッピングスポーツマンにとっての好個の狩場である。且つ都会人通有の華美生活愉悦は買う買わないを第二の問題としても大商店の意見は生活の空想を豊かにする快楽がある。

マルクスボーイやガールが案外銀座の買物を得意になって彼らの仲間に誇っている。左傾も右傾も銀座をぶらつくと、やはりカフェのテーブルに向かってカクテルの微醸を味わい、ブル気分になって軒並みの窓飾りを冷やかし、いい気持ちになってタクシーを飛ばす。


味覚極楽の銀座 その2 [読書放浪]

一軒一軒礼賛していたら、京橋まで行かない中に日が暮れてしまう。だが、歓楽の街は食味の街で、唾を催しながら談味するのもまた都会生活の一享楽である。新橋のとば口からして青柳があり千疋屋があり、一軒置いて支那料理の彩華が東側の秀華と相対して五茄酒や焼き豚を窓に並べている。銀座の美味に飽満しようとしたら胃袋の一ダースや二ダースあっても足りない。

と言うと銀ブラの興味は味覚極楽であるらしいが、談味もまた都市生活の要件、銀ブラの自然に足の向くのは尾張町以南の西側である。

西條八十の虎と獅子とが酌に出る銀座のニ大女人国のの一のライオンが東側の一角にあるのを他にしては、これと斜め向かいにタイガーが軒の虎のコミカルサインボールドで客を呼んでるを初め、これを挟んで各々数軒を置いて松月と小松食堂とがある。

不二家洋菓子点がモバ、モガを満たして二階も下もいつでも満員であるは言うに及ばず、二十年前のハイカラが幾多の会話を残した喫茶店、その隣りの銀座食堂、尾張町離の澤正食堂、モナミ、アルプスを通り越して竹川町、出雲町と二町に跨って両角を占める資生堂、中四五軒置いてエスキモー、続いて彩華、千疋屋、一々応接に遑あらずだ。

更に横へ少し入ると風月、天金、竹葉、銀座の名物と言うよりは全国的に響いている。電車道を横断して以北へ行くと赤瓢箪、銀ブラ、大橋食堂、京橋手前まで行けば皆川ビルのヤマトがある。名前を並べるだけでも食傷する。

西側に比べると東側は輸色があるが、何と言っても銀座の女王たるライオンが尾張町の一角にある。松喜、早川亭、三幸、銀座ビヤホール、西側のモダン味があるに違えて世帯じみている。ライオンが一軒で東側を背負って立ってる感がある。

尾張町以北も松屋を越すと、銀座の場末であるが、キリン、クロネコ、バッカスは地理的不利の位置にあるに拘らず、近代的の色彩を漂わしてライオン、タイガーに次いでの銀ブラの出丸である。佐々木の清涼飲料点は化粧品の副業であって、資生堂ほどに身を入れないが、暖炉が古いので相応に繁盛している。

丸見家の大阪鮨は竹川町の三幸、西側の帆掛鮨とともに銀ブラの別働隊でまた相応に賑わっている。千疋屋のフルーツケーキ、不二家のエクレア、田丸屋掻餅あられ、ちと旬ハズレだが、毛利のドッチャダンネ、家庭円満の銀ブラのお土産である。

味覚極楽のこの兜率天が銀座の中心で合って、ラッシュアワーの前奏曲が済むと銀座の夜の幕が開く。




味覚極楽の銀座 その1 [読書放浪]

東京に生まれて東京に育った私はやはり街の子である。田舎道の気散じな散策も悪くはないが街のジャズや色彩により多く惹かれる。銀座に流れる空気をヨルダンの水のように難有がるわけではないが、月に一度や二度は銀座の空気に触れないと郊外の肥料臭い頭が洗われないような気がする。

自然銀座へ足の向くのは珍しくないが、東西を通じる前後二三丁ぶらついて、モダン人の常訪するカフェのテーブルにぼんやりと向かってぼんやりと耽るいわゆる廬山に入って廬山を知らざる銀座の不通人である。銀座見学のつもりの今日は昔の赤ゲットの道順通りに克明に新橋を渡って、東側は角が空き地になっていて不景気だから西側の博品館前に立ち止まった。

全体日本のモダンを代表する帝都の一等道路の一端を今の字引にない工場やビヤホールで振り出させるのはいささか時代錯誤の感がないでもないと、口のうちで呟きつつ只見ると博品館は博品館でも工場の元の姿はなくて今ではモダンのマーケットである。入り口で旅の廉売をしているのが、一等道路の第一印象としていささか皮肉であるが、大衆向きだから相応に繁盛している。

博品館のとアンリは銀座の老舗の一つの大徳である。大徳の店は明治十五六年頃、父に連れられて帽子を買ってもらったのでそのころから記憶している。

一筆書きの中折のマークが新聞の広告欄をにぎわすのも最う久しくなる。「帽子はタムラ」を凌ごうとしている。ファスチストの制帽と獨逸のスポーツマンの帽子を店頭に飾って元気のいい近代人を喜ばしているのは間口は狭いが商売は活きている。

三銀が土瓶蒸し焙烙蒸しの道具をところ狭きまで店頭に並べているのは松茸はなくとも食欲をそそる。青柳も明治十七八年、櫻田に下宿していた頃からのお馴染みでここの烏羽玉を十食えるか食えないかとその頃の下宿友達と賭けをしたことがあるが、今でもクラシカルな菓子で鳴っている。

千疋屋は水菓子では東京一でこの家のパーラでアレキサンドリアのムスカットを賞翫しなければ果実の味を談ずる資格はないので、メロンやパパイヤは月並だそうだ。


新橋はもとは東京見物の振り出し [読書放浪]

以前は新橋がお上りさんの振り出し口であった。赤ゲットを背負った善男善女がカバンと相乗りで物珍しそうに四方をキョロキョロしながら送り出される開門であった。が、今では都人士の遊歩区域の唯の電車の乗降口であるから、ヨレヨレの色の褪せた時代物のインバーネスの無精髭をさらけ出すのはいささか気が引ける。が、駅を出ると正面はトンネル長屋とでも言いそうなバスのガレージで、骨組みができたばかりの板構えや半分破壊されたままの家出前後を取り囲まれている。

掘り返された泥がもぐらの土のように盛り上げられ、バラストやセメント樽や煉瓦の古板が道を塞げている。芝口の本通りは片側は大抵取り払われ取り残された家が跡を残している。路面は電車線の敷石道の外は削られ、蒲鉾形になってる両側が中央から五六寸も低くなっているから、端を掛かる欄干へ沿った歩道は、一段高くなってうんとこどっこいしょと一段登らなければならない。

駅から橋上まで一丁半かそこらだが、やあっとこさと難路を突破してヤレヤレと一息つくと、もとは博品館と新橋ビヤホールとで銀座の入り口の両角を華やかにしていたのだが、區整困難はこれをも脅かしていると見え、空き地となっている。隣屋の電友社、宇都宮回漕店で地震の名残をとどめている。

銀座は表側は區整を免れているらしいが、東西を通じる横町の隅々は多少ずつ破壊されている。尾張町の十字大道は両側共に広げられるので、ライオンと対角する山崎洋服店が矯正の鶴嘴を揮われて砂塵を揚げ、銀座を行楽するテイッターパッターの肝を冷やしたのはつい数日前のことである。

南角のライオンは既に取り払われているので、ヤマザキと隣する蓬莱、木村屋等はとっくに立ち退き、その後が銀座会館の建築敷地として板構えとなっている。銀座の本建築が揃って竣功し、近代都市の体面を具備するまでにまはまだ少なくとも六七年かかる。

それからでなくては観光団のお座なりお世辞をも受けることは出来ない。だが、銀座があまり欧化しすぎると、アジア臭すぎる我々時代錯誤衆は義理にも遠慮しなければならなくなる。

西條八十銀座行進曲を口笛吹きながら行く刺繍ズボンや、スクリーンから抜けだしたような極彩色のフラッパースの踵から尾いて、失業者然たる不景気面をキョロキョロさしても、巡査に叱られないで軒並みを覗いて行かれるのは今の中だ。


銀座は今は市民の遊歩区域 [読書放浪]

銀座が文明開化の實物教授として蜃気楼の出現よりも驚嘆された頃には新橋の橋のふもとには、いつでも赤ゲットの三人や四人は屯ろしていた。

赤ゲットといってもこれからの青年には地引を引かなければ通じなくなるだろうが、地方人が一生の憶出に赤ゲットを背負って東京見物に出かけた頃の銀座は東京名所双六の振り出しでもあれば上りでもあった。

交通の進歩が地方と東京との距離を短縮し、南は琉球の石原小石原、北は蝦夷樺太の果からでも着流しのフェルトでブラリと来られるのだから、銀座は最早プロムナードの1つで一生の憶出にボカンと口を開いて見物する場所ではなくなった。

ニューヨークの五丁目の自動車事故が1週何件、ロンドンのリジェント通りで捕まる万引きが1日何人、モンマートルにはカフェが何軒、クルフェルステンダム通りのキネマの小屋が何軒あると諳んじてる世界的地廻りがウヨウヨしているこのころ銀座の礼賛でもなかろう。

夷人の国にもこねぇな賑やかな綺麗な街はなかんべえ、とぶったま消えた50年前の赤ゲット心理で銀座を語るのはちょうど我々が適り役だろうと、そのつもりで銀座を見物する了簡でまず振り出しの新橋駅まで省電へ乗った。


存在を忘れられた三名士の死 [読書放浪]

九月の十二、十三、十四と、三日間不思議に続いて存在を忘れられた名士が死んでおる。十二日には伊藤大八、十三日には横井時雄、十四日には塚本周造と恁して名を挙げてもおそらく今の若い人達には異邦人であろう。関節に直接にその人達の全盛時代を知る私でさえが訃を聞くまでは全く存在を忘れてとっくの昔故人となったとばかり思っていた。

伊藤は兆民門下で政友会のパリパリ、満鉄副総裁としてあまり芳しくなかったが、前途の活躍はなお嘱望されていた。横井が学者としても操觚者としてもまた官人としても一流を下らざる才能と学識と閲歴を持っていたのは誰にも認められていたので、失脚して後もまた機務に参していた。塚本は官人としての閲歴最も古く、わが海運法の基礎を作った船舶界の功労者だった。

以上の中、塚本は功成り名遂げて円満辞職をしたので、官を去って後は全く世事を謝して閑雲野鶴に伴う生活を楽しんでいたのだから別として、伊藤横井の二人は失脚しても尚再起に悶々して覇心抑えがたきものがあった。

彼らの後進があるいは大臣の栄位に就きあるいは経済界の頭目として時めくを生ける屍となって眺める隠忍の無念は察するにあまりある。しかも存在の告知に代ゆるに訃報を以ってし、無名の閑人として葬られても新聞紙は数行の履歴をだも惜しんで載せるものが少なかったのはおそらく死んでも死にきれなかったろう。

近くは市川文吉翁の如くならば友人にだも知られないで煙のごとく消えてしまうが本懐であったろうが、覇心なお未だ消磨せざる伊藤横井のニ雄のごときはおそらく安心して瞑目出来なかったろうと、深く哀悼する。


小さな無名の俳人の死 [読書放浪]

青木月斗の門人のある会社員が小さな子供を二人殺して夫婦心中をした。盛粧さした二人の子供の意外を横臥さした枕元には枕屏風を逆さにして水を手向け先行を立てて回向したらしく、夫婦も盛粧して、若い妻女は美しく化粧して相対して縊れていた。

ことさらに用意周到なのは子供の以外はもちろん、夫婦自身もまた鼻口その他にガーゼを詰めて汚物の漏れない手富をしていた。家什はキレイに整理して清掃してあった。遺書は頗る簡単で、夫妻の辞世の俳句が連ねてあったが、その外に差配へ宛てて日常買い物の勘定残りが細かに書き付けてあった。

近頃このくらい沈着いた自殺はないので、錯乱の痕跡を少しも留めなかった。且つその原因が何であるかも不明で、会社の同僚や郷里の家族が瑞摩した原因が皆いずれも極めて薄弱で、自殺しなければならぬほど切迫した事情があろうとは考えられない。

左に右く職務上何等の過怠がない人格者で合ったのは重役も学って惜しんで社葬とした一事でも知られる。辞世の句を見ても夫妻ともに従容として死に赴いたは明らかで、平素の悠揚迫らざる襟度が決してただの会社員でなかったのが想像された。

だが、一会社員たる小さな俳人の自殺は問題とならないが、芥川が冷静な遺書を残して従容として死に就いたのが賛美すべきであるなら、芥川以上の沈着を以って芥川以上の悲惨なる一家四人の死を決行したこの小さな俳人を芥川以上に賛美しなければならない。

然るに一方は人気ある流行作家であるため殉教者の如く哀悼されて一斉に慶弔されたが、一方は小さな無名の俳人であるために単なる市井雑事として扱われてほとんど問題とされなかった。従容たる死が平素の人格の反映であるのは必ずしも認めるに吝かではないが、死はその動機によって軽重されるので、死の方法によって値踏みされるのではない。

如何に従容たる死でも動機の不明なる自殺は「七十ニ文命の安売」である。小さな無名の俳人の市なら命の安売も同情できるが、智慮あり学殖ある芥川としては自重の足らなかったのを惜しむの念に堪えない。




お大明のごとく死んだ徳富蘆花 その3 [読書放浪]

人気は一種の催眠薬で1つ作が当たって、人気が沸くとあとは平押に人気の力でトントン拍子に当たる。且つ自然に人気のコツを覚えるものだ。「寄生木」や「黒い目と茶色の目」やその他の諸著が出る度ごとに必ず読者社会を動揺しないことはないのは無論蘆花の作法がだんだん老熟してますます巧を加えるからであるが、その成功の1半はやはり最初の「ほととぎす」の人気の力である。

「自然と人生」は蘆花の本領で、おそらく蘆花作中の第一に託すべきものであるから嘖々されるは不思議でないようであるが、本来感想や随筆の読者は小説に比べて少ないのが普通であるに、蘆花の感想随筆に限って小説同様に広く読まれ、小説以外に書籍を繙くことがない婦女子にまでも愛誦されるというは全く人気の余波である。

「みみずのたはこと」に至って蘆花の人気は頂点に達し、それこそ馬追うしもべ、犬打つ童にまでも署名を諳んぜられるというは古今に例がないので、絶無でないまでも極めて稀にある精巧であろう。

蘆花の偉いのはその作物より作に対する態度であった。常時文学は既に相応に理解され、文人の位置はかなり重んぜられていたようでも、まだ一般は小説を劇作視した見方から冷め切らないで、小説家は兎角に冷たい目で見られていた。

自然、文壇という小さな仲間の外に世界があるのを知らないで、得々として小説家を鼻の先にぶら下げる劇作の末裔者流を覗いて、苟も多少の気概あるものは文学の権威を認めても小説家たるを躊躇したものだ。文学の氏名や外国における文人の位置を知るものも、少くも日本では「文学は果たして男子一生の仕事とするに足るやいなや」を疑わざるを得なかったのは、二葉亭一人ではなかったのである。

この中にあって蘆花は誰一人手を携えて行く道連れもなく、一方に劇作の後塵を追う人達を睥睨しつつ「われは小説家樽を恥とせず」と堂々宣言したのは誠に溜飲三斗を下げる心地がした。腹臓なく言うと私は蘆花の作に少しも推服しない一人である。真の孤立の倨傲をも慊らなく思ってる一人である。

が、この「我は小説家たるを恥とせず」の意気の衰えない限りはいつかは日本の小説の水平線を高める対策が現れることを期待していた。ともかくも強弩の末力に等しい作を発表しつつも蹲踞していたのは、この意気の壮んなるものがあったからだ。

兄蘇峰翁が量積を持ってしても、天下の副将軍が数十人の学者を集めて竣成した「大日本史」を瞠若せしむる大歴史を位置個人の力でこつこつ完成しつつある時、弟蘆花が前代稀なる人気を追いつつ、前途の大貢献を約束しながら喬木の倒れる如くに忽然として世を去ったのは誠に惜しむべき痛恨事で合った。

だがお大名のごとく死んだ蘆花の最後は尋常人気坂としては最後の頁を飾るに足るが、日本のトルストイと称される人道主義者の終焉としては最少し淋しかったほうが却って崇高であった。


お大明のごとく死んだ徳富蘆花 その2 [読書放浪]

蘆花がトルストイに私淑していたか否かは知らぬが、トルストイを最も早く紹介した1人であった。蘆花が早くからトルストイの熱愛者であったのは、十二文豪中の蘆花のトルストイ傳の自序によるも明らかで明治二十三年頃から外国雑誌や露国に対する諸著から杜翁の著作や記事を国民之友あるいは國民新聞に飜譚掲載していた。杜翁の飲酒喫煙説やサマラの飢饉救済記事は私の知れる限りでは蘆花の譚筆で初めて紹介されたのである。

且つ蘆花は世間から日本のトルストイと目されているが、。トルストイほどの苦労人でなかった。トルストイは貴族の家の駄々っ子としてワガママいっぱいに育って身自からは少しも辛酸を嘗めず、貴族に通有の多少の遊蕩に恥弱したほかはあまり波乱のない若い日を過ごしてきたが、人生に対する観照は深く、洞察は鋭く且つ精透であったので、歌人は座りながらにして名所を知るで、書斎に座りながら酸いも甘いも心得て、人間の腸の底までも透視した。

且つ講壇の説法者であるばかりでなく農民と伍して一緒に泥ボッケとなった。兎角の批評はあっても人間のフワイターでもありマータヤでもあった。蘆花の一生については詳しく知らぬから批評数r資料を持ち合わさないが、蘆花の作に扱われたものはブルジョワ階級でその百姓生活にもブルジョワ的道楽気分があった。

二者の最後の幕切れを比較してもトルストイのには人生の苦痛が滲み出していて、漂白の行路病者の如く死んだが、蘆花は大掛かりな鳴り物入りの芝居気分でお大明のごとく葬られた。

蘆花の作は「ほととぎす」でも「やどり木」でも最近の「富士」でもモデルの興味で読ませたので、平たく言うと芸術的価値は乏しいものばかりだ。「ほととぎす」が最初に評判を呼んだのは常時の硯友社派や根岸派の小説があまりに芸術過ぎていたのに反したからで、ちょうど料理屋の料理の後で自宅の台所の惣菜が案外うまく食べるようなものだ。

プロットが単純で、文章が平易でわかりやすい上に安直な涙をさそうセンチメンタルの叙述を多重に持っているのが大多数の小説読者なる女子供の気に入ったのである。加えてモデルの評判が誰からとなく口耳相傳えると、ますます好奇心を燃やして一層人気は沸騰した。

もう1つは従来の小説が政治小説を別として、人情物では材を市井に取るのが普通であったに反して、「ほととぎす」は上流家庭の事件を扱って、しかもこれが事実談であるというのが珍しくて常からあまり小説に親しまないものまでが争って読んだ。

その頃はまだ小説を顰蹙して家庭に入れるを好まないものが多かったので、ことさらに上流社会は尤も多くこの偏見に囚われていたのだが、同じ階級の事実談を書いたという興味に惹かれて初めて小説というものを読んでみたのだから、面白さに浮かれてますます評判した。

つまり「ほととぎす」は小説の常識者にはあまり感服されなかったのだが、モデルの興味から小説を読んだことのない階級に大騒ぎされて一挙にしてたちまち人気作家となったのだ。


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