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清新軒と函館屋 その3 [読書放浪]

その頃銀座に函館屋という氷屋があった。天賞堂前の西側、銀座食堂で、富士の山の形をした屋根看板がひと目を牽いて銀座の評判となった。主人の伸大蔵というは榎本に従って脱走した五稜郭の残で、腰分に弾倉を受けてしばらく民家に隠れていた。

その後、東上して銀座に氷屋を創めたのが明治九年、屋号を箱根屋といったのは、その頃は天然水だけで函館が唯一の産地であったからだが、ひとつはごりょうかくが一生の忘れられない憶出であったからあでもあろう。

ビール樽のようなはち切れそうな恰幅で、その頃町家には珍しかった洋服に下駄履きという珍妙な扮装で、客を客とも思わず蛮声を浴びせかける五稜郭頭位の元気が売り物となって、富士の看板とともにたちまち銀座の名物となった。


函館屋は氷屋という條、その頃珍しい洋酒を置いて一杯売をした。鳥渡バーという形があった。五稜郭の残というので幕人中には、日本の最始の洋行者もたくさんあったのは争われない。後の伯爵林董先生などもその一人だったそうだ。

この函館屋でその頃既にアイスクリームを作っていた。しかも横浜の居留地内には明治に三年頃からアイスクリームを食べさせる家があって、一杯一分であったそうだ。米何斗という時代の一分は滅法界もない高いもんだったが、この一分のアイスクリームの味が忘れられないで、私の父などは東京にはあんな旨いものはないと始終いい合いした。

函館屋がアイスクリームを作り始めたのはいつ頃だかはっきりしないが、その頃は既に小耳に挟んでいた。が、清新軒の料理はご馳走してもらったが、函館屋のアイスクリームは少年の私の口に入るものではなかった。

金玉均が初めて来朝して宗十郎町の山城屋に滞在中、珍しい頬ベタの落ちそうなものはないかと注文されて、宿の主人の機転で函館屋のアイスクリームを出すと、金君本当に頬ベタを落としてしまった。それから後、函館屋のお馴染みとなって暇さえあればよく遊びに来たそうだ。


函館屋は牛乳と氷ではいつも率先していた。十数年前、一時カルピスの前身ともいうべきヨーグルトというが流行した。アイスクリームの甘みがなくて酸味の強いようなものだったが、函館屋のは殊更に美味だというので評判された。

しかもヨーグルトとしての医学的特効の方は疑問とされたが、函館屋のヨーグルトはかなり評判出会って、私の如きも態々使に買わせて賞味したことがあった。が、このヨーグルトで売ったのが函館屋のラストスパークでまもなく五稜郭の落ち武者のこの名物男は大往生して、名代の富士の山の看板は下ろされた。

函館屋の名も今は過去の語り草となったが、銀座の憶出に省くべからざる一人である。




清新軒と函館屋 その2 [読書放浪]

明治十四五年頃芝へ下宿し、それから三四年間芝と築地の間をあちこち転々した。銀座は遊歩区域だからちょくちょく散歩したが、そのころはもう見世物町でなく、今ほど銀座を享楽するものはなかった。その頃から銀座へ行けば贅沢者を売ってるという評判だったが、下宿住まいの貧乏書生の興味を惹く何者も銀座にはなかった。

松田と並び称された今の博品館の角の千年はその頃既に繁盛していた。松田は十八年の流行細見には依然中食のお職になってるがそのころは浅草の隅屋の後へ出した支店の方が栄え、銀座の本店は較や寂れて、新しい千年に落とされぎみであった。

どっちも同じ中食茶屋で、今なら食堂と言いそうな惣菜料理だったが、千歳の方が高等で、松田が衝立一つで幾組も入れたに反して、千年はこういう広い座敷の代わりに一組だけの別室も幾間かあった。が、赤ゲット向きの色硝子の障子などがあって万事の設備がやはりあまり上等ではなかった。


だが、その頃はもう照り焼ききんとんでもなかった。下宿屋書生共通の牛肉で、土橋の黄川田へよく出かけた。流行細見には銀座の吉川の名が見えるが、その頃私はまだ吉川を知らなかった。

具足町の河合はその頃から知っていたが、芝からは遠方だったから、自然黄川田へばかり足が向いた。卑しい咄だが、生一人付きの鍋にご飯で十二銭五厘だった。だが、その頃は十二銭五厘が中々な大金で、学費を請取った時でもなければ散財できなかった。

一厘一毛の余裕もない切羽詰まった算当で出かけたこともあった。大きな声じゃ言われないが、牛肉の誘惑に負けて教科書をぽーんしたこともあった。あんまり善良じゃなかったね。銀座のその頃の飲食店の憶出としてはコレの他にない。


私が初めて洋食を味わったのはやはり銀座であった。その頃より二三年前の明治十五年、新しい橋内の丸木へ撮りに行った帰りに従兄弟に連れられて槍屋町の清新軒で生まれて初めての西洋料理を食った。

どんなものが出たか忘れてしまったが、ナイフがうまく使えないので、チキンの皿をがちゃんと言わして更から肉を蹴飛ばしたことや、フィンガーグラスの水をがぶっと飲んで笑われたことを覚えている。

が、皿敷が7つばかりで今の三円の晩食よりも上等で、一人前が五十銭てのは安いもんだった。それでもその頃は洋食は贅沢視されて子どもや書生は分に過ぎると省かれて仲間入りが出来なかったもんだ。物価も安かったが、生活の程度も低かった。




清新軒と函館屋 その1 [読書放浪]

が、その頃はまだ銀座も草創時代で、表通りにさえ空き家があって裏煉瓦はまだ半成で、河岸通りになると日暮れには一足が途絶えた。見世物が景気を添えて人を呼んだが、盛り場としたらその頃久保町の腹と称した土橋のそばの空き地の方が葭簾張の鮨や汁粉やおでん、豆蔵や居合抜きや講釈で賑わった。

銀座からは少し離れていたが、柴野櫻田の売茶亭というがその頃の一流の大割烹店で、社交の中心となっていた。表は久保町に面して裏は壕端へ抜け、いつでも馬車の二三台は待っていた。

私はまだ子供でこういう方面の消息は一向知らなかったが、その頃は待合政治というものもなかったし、寝猫遊びは市井の遊治郎のすることで、朝廷の大臣参議は堂々と馬車を乗り入れて酔歌乱舞の豪興をやったものだ。私の家はこの売茶の隣屋だったから、夜に入ると絃歌の声が摂るように聞こえた。

売茶の閉鎖はいつ頃で会ったか知らぬが明治十八年の東京流行細見には芝京橋では第一位に挙げられ、養殖としても精養軒に継いでるからなお相当の声価を維持していたのだろうが、その頃はもう下り坂で寂れていたらしい。

花月は明治早々まだ煉瓦が出来ない以前からあったそうだが、その頃の子供の私はまるで交渉で名前すら聞かなかった。松田の鰆の照り焼きときんとん蒲鉾の口取が天下第一のご馳走であった。


その翌る年は下谷の家へ戻って銀座とは遠くなってしまったが、私の家の菩提所の白金の寺へ墓参した帰りは必ず銀座へ回った。その頃下谷から白金へ行くのは今日箱根や熱海へ行くよりも時間がかかったので車で行っても一日掛けの大旅行で会った。

墓参は附けたりで帰りに松田で鰆の照り焼きときんとん蒲鉾でごはんを食べるのが楽しみで、墓参というと3日も前から有頂天だった。それから暫くすると私の家はそろそろ左り前で、下谷の大きな邸から鳥越の小さな家へ引越し、鳥越の小さな家も売り払って三筋町へ店借りした。

何千坪の大きな地主様から三間か四間の借家人と一年立たぬ間に急転直下に成り下ったのだから、最早松田の照り焼きどころではなかった。折々の墓参も父が単身で一直線に菩提所へ詣でたので、私は遠方だからと連れて行かれなかった。




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