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寄席とシネマ [読書放浪]

その頃銀座には今の東名座の前進の金沢亭と、南鍋町の鶴仙と、もう一件銀座二丁目にも講釈場があった。寄席のファンであった私には寄席についての憶出もあるが、寄席は大抵どこでも同じだから銀座の寄席には余り行かなかった。

その中、金沢亭は都下有数の席で、第看板が常に掛かったが、まだしも谷の吹き抜け、浅草のなみき亭、神田の白梅には及ばなかった。


銀座には今シネマ銀座があって金春あたりの美人が大分来るという評判であるが、十年ほど前、西側の裏煉瓦に金春館というのがあった。建物は小さかったが、出し物は封切りの西洋ものばかりで、これも帝劇の女優が来るというので評判だった。

トウダンスで売りだした高木徳子が全盛だった頃、数寄屋橋内のスケート場に帰りにきっと来たそうで、マネージャーのSが今、高木徳子が来ていますと電話をかけてきたことが三四度あったが、徳子の素顔を見ても始まらないから一度も行かなかった。

金春感はいつ頃閉鎖したか知らないが、シネマ銀座がその株を取ったと見える。ここらの活動は、ちょうど銀座の散策がカフェよりも夜店の冷やかしよりもモガのぞめきを見物するを主とするものがあると同様にスクリーンの面白みよりは観覧席の目の保養を楽しむものがあるらしい。少なくとも銀座のムーヴェーは観覧席が興行主の懐の痛まぬ大入りの美景となってるらしい。


シネマのないころの唯一の民衆娯楽は寄席であるが、銀座には前記の三席があった。講釈場を除いて寄席は正月のほかは書簡は籍を打たぬものであったが、金沢亭には色物の書席があって、二三度聴きに行ったことがあった。

が、木が落ち着かないで寄せ気分になれなかったのと、夜は、その頃の私の下宿からあまり遠かったので、銀座の寄席には自然足が向かなかった。

何と言っても銀座の民衆娯楽は明治八九年の見世物時代が一番盛んであった。が、見世物の種類は前記の貝細工、覗眼鏡などは上等の部で、私は記憶はないが、銀座の故老の咄によると、今なら片山里の鎮守の祭礼にも小屋掛けしそうもない轆轤首、足芸、首切、因果物、神佛利生記、地獄変相のゼンマイ仕掛け等が昔からやはり人の出盛る西側に並んでいたそうだ。

銀座がおいおい商店で塞がってから山城河岸へ見世物は移転したがその頃の山城河岸と言ったら狐や狸の出そうな今の帝国ホテルの辺りと、茂った濠一つ隔てた寂しい街だったから、明るい町なればこそ轆轤首も見物はあるが、裏町の寂しい夜は一向人が来なかった。

だんだん寂れて一つ二つ減って、見世物町がいつか末枯れの、京侍の紋染五郎剛勢談に出てきそうなグロテスクな饂飩粉の女の巣となってしまった。




円太郎馬車と鉄道馬車 その2 [読書放浪]

円太郎というは名人圓朝の前座を勤めた男で、圓朝没後の三遊派を事実上に統率した園高の実兄だった。弟の園高が圓朝の衣鉢を傳えた素話の名人であったに引き換えて兄貴の円太郎は破鐘声で鼻にかかった都々逸を唄う以外には能のない、用器と言うよりは騒々しい男だったが、でっぷり肥えた丸まっちい無邪気な起き上がり小坊師のような身体つきと、高座へ上るとすぐ都々逸を唄い始めて、のべつ幕無しに一つ音曲噺を洒落まで同じに臆面もなく毎晩繰り返す毒のない芸が愛嬌になって相応に人気があった。

どういう洒落だか、持ち前の芸づくし大一座の中に乗合馬車の掛け声の真似をして「お婆さん危ないよ」と言ったのが馬鹿に人気を読んでドッという大喝采だった。だんだん円に乗って終いには喇叭を持ち込んで、咄をはじめる前にまずお客に向かって吹いた。

これがまた愛嬌となって高座でえんたろうが喇叭を吹くと割れるような騒ぎだった。馬鹿馬鹿しいくだらぬ芸であるが、圓朝一座のなくてならぬ愛嬌者となっていた。そのなか、圓遊はかなり音曲手踊の相当の素地があったが、円太郎談志は全く無芸の芸人ともいうべきもので、江戸の音曲の寄席芸術の表現派であった。

それからして乗合のガタ馬車の異名が円太郎となったので、乗合が喇叭を吹いたのは円太郎以前からだ。もとはやはりヨーロッパの田舎の飛脚馬車の真似をしたので銀座の大道を喇叭を吹いてガタ馬車を走らせた円はどうしても十八世紀あたりの風俗を憶出させる。明治の文明開化は円太郎馬車で象徴される。


円太郎馬車の全盛時代は貞秀が名所絵に気を吐いた明示し五年から八九年時代であった。が、十四五年ごろは飽かれ気味で、職人階級、労働階級でなければ乗るものはなかった。しかも官吏階級はたびにでもでなければ、乗合などには乗ろうともしなかった。

東京市中、しかも銀座の大道を円太郎がブウブウ喇叭を吹いて見苦しい車体をガタクリして通るは帝都の不面目だとせつに顰蹙していた。

奏任車にふんぞり返って行人を見下して走らせる資格のない階級や注等商品は円太郎へ乗る気にも慣れないで、人生行路難を東京市中で勤息していたのだから、円太郎と比べて同一の談でない馬車の開通を一斉に歓迎した。これでこそ文明としに恥ずかしからぬ交通機関だと注等階級者には感服された。私のごときも感服した一人であった。


これからしばらくは馬車鉄時代だった。錦絵を見ても赤い円太郎の右往左往するレンガ通りの光景は義理にも文明のしがいとは言い難かったが、鉄道馬車となるとどうやら文明の首都らしくなった。且つ開業当時は車が新しく、円太郎と比べて車体が大きく立派だったから感服されたが、暫くするとだんだん汚くなって徐々に飽かれ出した。

第一円太郎でも馬車鉄でも馬が牽く以上は排泄物を如何ともしがたかった。人夫が絶えず拾ってm拾い切れないで自然レールの間は馬糞を堆積して銀座の真ん中を通じて一條の馬糞溝ができた。殊更に停留所では定っていい気持ちそうに放尿した。

銀座ではないが、就中日本橋の大倉書店前は有名な鉄馬の放尿所であった。その頃は道幅が狭かったから、通りがかりの者は飛沫を浴びせられた。ロンドンのタワー・ブリッジも壮麗だが、自動車のない馬車時代、大船を通ずるために橋板を開くと馬糞がコロコロと転がり落ちるにはロンドナーもお国自慢の鼻が折れたそうだ。

日本一の日本橋の袂に馬尿の洪水が溢れているのは「江戸名所国会」には見られない国だ。喇叭円太郎氏高座で歌って曰く「ほれたほれたよお前にほれた、馬が小便して地が掘れた」と。喇叭氏、有繁に馬車馬の通人だった。




円太郎馬車と鉄道馬車 その1 [読書放浪]

清新軒へ行った帰り、ちょうど鉄道馬車が開通そこそこで、わざわざ鉄道馬車を見物に来るものさえったのだから、私も銀座へ出て尾張町から京橋まで乗ってみた。馬がレイルの上へ車を牽いて走るというなんでもないことが珍しがられたというは、今聞くと馬鹿らしくて信じられないが、その頃は真実珍しがられたのだ。

昔は近江の竹生嶋の住民が一生の憶出に大津の街へ行って馬を見て来べえと言ったという一つ咄があるが、まだ京濱の鉄道を見ないものもあった時代、馬車が記者と同じにレイルを走るというは第三次でないまでも見物であったに違いないので、私のごときも多少の好奇心を以って試乗した。

乗ってみれば格別の奇も無いがまだ出来立てのホヤホヤであるから、今までのガタ馬車と違って綺麗で、クッションも新しくフカフカして乗り心地が心地よかった。


鉄道馬車が布かれるまでの市内の交通機関は明治そこそこに文明開化の先駆けをした千里軒系統の乗合馬車であった。千里軒系統の乗合と言って今の若い人には貞秀の錦絵でも見なければわかるまいが、粗造な原始的の馬車である。

今では僻遠の山里でもめったに見られまいが、このがたくリバ者が背骨の現れて皮膚のすりむけた老馬をビシビシと引っ叩きつつブウブウ吹いて帝都の中央を走っていた。この痩せさらぼいた老馬が喘ぎ喘ぎ鼻から息を吹き、脂汗を垂らしてガタクリ走っていたのがお婆さん危ないよと今の自動車よりも怖がられていた。

落語家の円太郎がこのガタ馬車の真似をしたのが人気になって、乗合のボロ馬車を円太郎と呼び、今日の自動車のバスまでが円太郎と称される。


コレについて先ごろもある新聞が、乗合を円太郎と称する語源を説明して、落語家の円太郎が高座でガタ馬車の真似をしてからだというと、いや乗合馬車の方が円太郎の真似をしたのだと通ぶった明治研究科があった、ついこないだのことがこうも分からなくなるものかと本末転倒を笑止に思った。

話は少し横道に入るが、銀座の真ん中を走った電車以前の交通史のエピソードとして円太郎のことを少し加えよう。




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